写真説明:関東大震災時に鶴見署長を務めた大川常吉氏
爪痕から学ぶ…関東大震災 世紀の教訓②
鶴見区の東漸寺に立つ石碑
「死を賭して其の非を強く戒め三百余名の生命を救護した――」
横浜市鶴見区の東漸寺には、関東大震災時に鶴見署長を務めた大川常吉氏(1940年、63歳で死去)への感謝が刻まれた石碑が立つ。デマによる迫害から多くの朝鮮人らを守ったとされる大川氏。同市戸塚区に住む孫の豊さん(71)は「美談ではなく、祖父は当然の行動を取ったのだと思う」としみじみと語る。
写真説明:大川署長への感謝を込めて建立された石碑(横浜市鶴見区の東漸寺で)
自警団が連れてきた「朝鮮人」
震災後、「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言が飛び交い、自警団によって朝鮮人、中国人らが殺傷される事件が相次いだ。県警が1926年に発行した大正大震火災誌によると、震災翌日の9月2日夕、自警団が「朝鮮人」の4人を鶴見署に連行してきた。
「一人でも逃亡したら切腹する」
4人は実は中国人で、井戸で水を飲んだ時に瓶を持っていたことで「井戸に毒薬を入れた」と疑われた。大川氏は瓶の中身を飲んでみせたものの、疑念は晴れなかった。鶴見署が総持寺に保護していた朝鮮人、中国人ら400人ほどを安全確保のため署内へ移送すると、1000人近い群衆が署を包囲した。殺気立つ住民らを前に、大川氏は「自分を先に片付けろ」と説得し、一人でも逃亡者が出た場合は切腹すると約束して場を収めたとされる。
震災の死者、数%は暴行死か
関東大震災の死者、行方不明者は推計10万5000人。政府の中央防災会議が2008年度にまとめた報告書では、このうち数%が自警団の暴行などによって犠牲となったとも推定されている。
惨事の背景には、震災前の「韓国併合」で、関東でも増えた朝鮮人労働者への反感や差別意識、朝鮮独立運動への警戒心などがあったとみられる。
副読本「虐殺」から「殺害」へ
横浜市内の小学生らも朝鮮人への攻撃を目の当たりにした。作文に「男の人は皆竹やりを持って朝鮮人をおっかけています」「皆で石を投げたりしたら、死んでしまった」とつづっていた。
当時の記憶や不幸な歴史をどう伝えていくのか。横浜市教育委員会などが発行した2012年度版の中学校副読本にあった「朝鮮人虐殺」などの表現は市議会で批判され、その後は「殺害」と改められた経緯もある。
忘却に任せるのは危険
在日朝鮮人の歴史に詳しい明治学院大の鄭栄桓(チョンヨンファン)教授は「歴史を語らず、教えず、忘却に任せるのは危険だ。史実の歪曲(わいきょく)にもつながりかねない」と警鐘を鳴らしている。
豊さんは「関東大震災では何が起きたのか。祖父の行動を伝える話が、改めて考えるきっかけになってほしい」と願う。
写真説明:関東大震災の翌年、朝鮮人たちが大川署長へ贈った感謝状を読む孫の豊さん
不安や怒り 弱者に牙
「不逞鮮人が井戸水に毒薬」
関東大震災時、県内では余震や津波への懸念があったほか、火災の影響で横浜刑務所が囚人を一時的に解放したことなどが人々の不安をあおり、デマが広がった一因になったとされる。震災2日後には三浦郡長が「不逞鮮人が被害民に暴行し、井戸水に毒薬を投じた事実がある」と各町村長に注意を促した文書も残る。
写真説明:「不逞鮮人ニ関スル注意ノ件」と題し、当時の三浦郡長が町村長に通達した文書(三浦市所蔵の写し)
震源に近く警察が弱体化
長く研究を続けてきた元横浜市立中学教諭の後藤周(あまね)さん(74)(神奈川県海老名市)は「震源に近い横浜は被害が東京より甚大で、警察署も被災して弱体化した。地域全体が孤立するなか、流言が広まってしまった」と指摘する。
真偽を確認できない情報を広めない
インターネットやSNSの普及で、個人でも情報を自由に発信できる時代になった。災害時、市民は情報に正しく向き合う必要がある。東京大学総合防災情報研究センターの関谷直也教授は「災害後には不安や怒りなどから流言が起きやすく、弱者や少数者が対象になることがある。それを知っておくことが重要。真偽を確認できない情報を広めてはならない」と戒める。
<大震災後の流言に関する動き>
※大正大震火災誌などを基に作成
1923年9月
1日 朝鮮人を巡る流言が広がり始める
横浜刑務所が囚人約1000人を解放
2日 政府が戒厳令を東京市などに発令
3日 戒厳令が県内にも拡大
鶴見署に朝鮮、中国人ら約400人移送
4日 横浜近辺で陸軍による警備が本格化
(読売新聞 2023年8月30日掲載 横浜支局・村尾潤)
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