被災者が残した克明な記録…被災地を巡り、防災教育に生かす 関東大震災 世紀の教訓③

写真説明:震災後の元町周辺。山手地区の台地が崩れている(O・M・プール氏撮影、横浜開港資料館所蔵)

爪痕から学ぶ…関東大震災 世紀の教訓③

生死分けた避難

横浜ベイブリッジを望む横浜市中区山手町の「港の見える丘公園」。優雅に港の景観を楽しめる憩いの地が100年前、猛火に追われる多くの外国人らが逃げ込み、生死を分けた場所になったとは、現代では想像しにくいだろう。

米国人が書いた「古き横浜の壊滅」

壮絶な被災体験は、手記や絵画などで今に伝えられている。「近くの洋館は倒壊し、強風にあおられて火災が迫った」。被災地を巡り、防災教育につなげる活動を続ける元高校教諭相原延光さん(73)(藤沢市)は当時の様子を説明する。参考にしているのは、米国人のO・M・プール氏(1880~1978年)の著書「古き横浜の壊滅」だ。

写真説明:O・M・プール氏(リチャード・A・プールさん寄贈、横浜開港資料館所蔵)

険しい崖を降り九死に一生

〈焼けた夏の突風のようになり、たくさんの炎をひろいあげ、渦のようにして、廃墟(はいきょ)の溝に沿って私たちに襲ってきた〉

商社の総支配人を務めていたプール氏は、現在の横浜市中区山下町にあった事務所で被災。家族の安否を心配し、自宅がある山手の台地へ向かった。一帯の建物は崩れ落ち、台地のへりでは地すべりも発生していた。妻と息子3人と合流できたが、火の回りが早く、現在の港の見える丘公園の険しい崖を下りる決断をして命をつなげた。プール氏は、1968年に体験記を出版した。

元地学教諭が始めた「防災まち歩き」

相原さんとプール氏が避難したルートをたどると、防災上の注意点が見えてくる。横浜市は戦後、丘陵地で宅地造成が盛んに進められ、土砂災害の危険も指摘される。相原さんは「土砂災害が心配される所を歩くと、プールさんの実感に近づく」と語る。

子どもたちに「体験」を

地学教諭だった相原さんがプール氏の著作を基に、「まち歩き」を始めたのは10年前。「砂防フロンティア整備推進機構」(東京都千代田区)専門研究員の井上公夫さん(75)(防災地形学)らと関東大震災の土砂災害を調査したことが契機となった。高校で防災教育に取り組んだ経験がある相原さんは「子どもたちに災害を想像させられる。授業に『防災まち歩き』を取り入れてほしい」と言う。

写真説明:震災当時を思う相原さん(横浜市中区の港の見える丘公園で)

横浜シティガイド協会が「被災体験ツアー」

初回は洋画家が残したスケッチをもとに

NPO法人「横浜シティガイド協会」は4回にわたって「被災体験を歩く」と題したツアーを開催する。小学校教員、新聞記者、小学生、写真家の日記や絵画、記事、回想録から震災遺構なども巡る。

初回10月18日は、松山市出身の洋画家八木彩霞氏(1886~1969年、本名八木熊次郎)の絵に学ぶ。横浜市の尋常高等元街小学校教員だった八木氏は、震災当時の様子や被災体験を日記とスケッチに残した。

写真説明:八木彩霞氏が描いた震災発生直後の元町周辺(八木洋美さん所蔵、横浜開港資料館保管)

被災者が残した記録を次世代へ

〈壁土がもうもうと立ちのぼり、太陽は赤く銅色に変わった〉

日記の内容、校舎が潰れた様子を描いた迫力ある絵は衝撃を生々しく表現している。八木氏は震災2年後に退職し、パリに留学して洋画家として活躍した。

ガイド役を務める同協会副会長の鈴木清さん(69)は「教訓を考えてもらうツアーにしたい」。被災者が命からがら残した記憶、記録を次世代へ引き継ぐ役割を担う。

写真説明:八木彩霞氏(横浜開港資料館に展示)

震災時の写真展示 2023年11月まで

O・M・プール氏が残した震災時の写真や文書は、横浜市中区の横浜開港資料館で始まった特別展「大災害を生き抜いて」の関連企画として、2023年11月末まで展示されている。

避難先の神戸で書き留めた震災体験記、プール氏の家があった山手の惨状を写した古写真などで、被災後に父に宛てた手紙には「5日間が5週間にも相当するほどの恐怖の日々だった」とつづられている。

ガイドツアー「被災体験を歩く」の問い合わせは、横浜シティガイド協会(045・228・7678)へ。ホームページでも2023年9月5日から参加を受け付ける。

(読売新聞 2023年8月31日掲載、川崎支局・五十嵐英樹)

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