写真説明:「大地震之かぞえぶし」を弾き語りする高浜さん(2023年9月1日午前、神奈川県開成町で)
爪痕から学ぶ…関東大震災 世紀の教訓⑤
〽広い日本の国々に 試し少ない関東の 大震話を聞かしゃんせ――
100年前の激震に耐えた家屋を改築した神奈川県開成町の「古民家ガーデン紋蔵」で2023年9月1日、集まった30人ほどの聴衆らは大震災発生時刻の午前11時58分に犠牲者を悼んで黙とうした後、当時の惨状を伝える数え歌の琵琶語りに聞き入った。同県大井町の間宮真理子さん(75)は「情景が頭に浮かんでくるようで心にも染みた。防災のためにも子や孫に教えたい」と感動していた。
古民家から発見
披露された数え歌は「大地震之かぞえぶし」。築160年と推計されるこの古民家で2015年、管理人を務める志沢晴彦さん(60)が発見し「震災を生き抜いた人々の教訓を広めたい」と活用策を考えてきた。
写真説明:発見された「大地震之かぞえぶし」の表紙(神奈川県立歴史博物館提供)
逃げ惑う様子や恨み節など20番まで
「七五調」で20番まである歌は、被災者が逃げ迷う様子、地割れや家の倒壊、恨み節などを表現し、和紙に筆書きした冊子の状態で残っていた。古民家は農業を営んでいた西海紋蔵さん(1899~1995年)が亡くなった後、20年間ほど空き家となっていたが、地域振興に活用しようと地元のNPO法人「すずろ」が借り受けて維持管理し、志沢さんは米蔵を整理中にテレビ台の棚から冊子を見つけた。
曽祖母の震災体験を母から聞かされ
「家財道具が全部焼けてしまい、死体をまたいで逃げた――」。志沢さんは、曽祖母の体験を母親から何度も聞いた。生々しい被害の様子を撮った写真も実家に残り「子どもの頃から衝撃を受けていた」といい、防災啓発への関心も高かった。紋蔵さんから家屋を引き継いだ家主は数え歌の存在を知らなかったといい、志沢さんは「忘れ去られていた数え歌を、知ってほしいとの思いに駆られた」と力を込める。
写真説明:古民家から「大地震之かぞえぶし」を発見した志沢さん
秋田から奏者呼び琵琶語りを披露
数え歌の冊子はこれまでも古民家に展示し、観光客や住民らに紹介してきた。今年は節目とあって「歌として多くの人に聞いてもらえないか」と、知人で秋田県能代市に住む琵琶奏者の高浜藁水(こうすい)さん(37)に持ちかけると「100年に1度しかない機会。観客がいなくても自分が演奏したい」と応じてくれた。琵琶語りに詳しい企画プロデューサー長嶋建人さん(72)(秦野市)が現代語風に訳詞した。節をつけた高浜さんは「同じ経験をしてほしくないという、先人の思いが伝わる抑揚を意識した」と語る。
数え歌の披露後、志沢さんは「普段と違う顔付きの母に聞かされた口伝は、今も染みついている。数え歌も未来に残していきたい」と思いを新たにした。
防災の心構えを伝える「記憶装置」
「大地震之かぞえぶし」は作者不詳だ。いつ、どんな目的で作られたかも分かっていない。だが、横浜、藤沢、大磯、秦野、小田原などの地名が登場し、土砂崩れ、大火災といった様々な被害を表現したとみられる文言が入っている。
「明治22年熊本地震」などの数え歌を研究してきた熊本県立大学教授の大島明秀さん(日本近世史)は、大地震之かぞえぶしについて「具体的地名や被害が記され、恐怖と混乱がリアルに描かれている」と語る。記述や内容からも「当時は新聞も行き渡り、報道も参考にしていたのではないか」と推察する。
「珍しい資料、積極的に保存を」
数え歌は物事を覚えるためのツールとして大衆に親しまれ、大島さんは「防災の心構えを後世に語り継ぐ『記憶装置』で、相互扶助の精神を感じる」と説明する。ただ、口承で受け継がれるため、資料として残っているのは珍しいという。「共同体が崩壊した現代に数え歌を語り継ぐことは難しい。今も残っている数え歌は積極的に保存していくべきだ」と指摘する。
写真説明:「大地震之かぞえぶし」の歌詞の一部(神奈川県立歴史博物館提供)
「大地震之かぞえぶし」(抜粋)
(5番)
今は地震で命がけ
かわいい我が子も捨て置いて
西よ東と逃げ迷う
(6番)
向こう眺むりゃ黒煙(くろけむり)
道も野原も一面に
割れて噴き出す泥の水
(9番)
怖い怖いで逃げ惑う
人は手足に血を流し
神も仏もないものか
(11番)
家は倒れて人は死す
御上も一時は手もつかず
なんとかなるのかこの始末
※現代語訳は長嶋建人氏による
(読売新聞 2023年9月2日掲載 横浜支局・阿部華子)
無断転載禁止