関東大震災99年!犠牲者10万人超から学ぶべきことを歴史家に聞く

致命的だった全体像把握の遅れ

災害の全体像の把握が遅れたというのは、関東大震災の最大の反省点だ。被害が少なかったところから大きかったところに救護の要員を回すといった措置もとられず、江東地区では本格的に救護が始まるまでに5日もかかっている。発災直後は仕方ないとしても、もう少し早く組織的な救護が行われていれば、救出できた負傷者もいたはずだ。

 全体把握が遅れた要因

 初動段階でなかなか東京全体の被害状況が把握できなかったのは、体制の整備と情報集約が遅れたためだ。警視庁は地震で庁舎が焼け、災害対策の司令塔がすぐに立ち上がらなかった。

写真説明:炎上する警視庁(『大正大震火災誌』東京都立図書館蔵)

それどころか、少なからぬ東京府や軍、警察の要員は地震発生を受け、家族の安否を確かめるために帰宅した。今なら考えられないことだが、当時は災害時の役割分担が細部まで徹底していなかった。地震が土曜の半日勤務の終了直後だったこともあり、復旧作業は週明けになってから本格化するという判断が多かったのだろう。通信や交通は途絶していたから、一度帰宅した職員を再び集める術はなかった。

写真説明:東京市役所前の雑踏(『東京震災録』東京都立図書館蔵)

初動の組織対応が遅れた結果

組織的な対応が遅れたことで行政と軍、警察にばらばらに入る被害情報は組織内ですら集約・共有されず、各組織が場当たり的に対応することになってしまう。救護の主役となるべき軍も、初動の段階ではちぐはぐな動きをしている。

陸軍には当時、「衛戍(えいじゅ、駐屯)部隊が衛戍地を守る」決まりがあり、甚大な被害が出た江東地区は東京の部隊の管轄だったが、最初に江東地区に入ったのは管轄外の千葉県の部隊だった。しかも任務は救護ではなく警備で、兵士たちは銃を担いで被災地に入った。千葉の部隊が東京の災害支援に出動したのはこの時が初めてで、救護の心構えも装備も不十分だった。

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