3・11 陸前高田で犠牲者の検視を行った警察官が見たもの

写真説明:陸前高田市中心部でがれきをかき分けて生存者を捜す自衛隊員ら(2011年3月12日)

岩手県は東日本大震災で6200人あまりの人が犠牲になった。あれから10年。震災を経験した人たちの証言から出来事を振り返る。

見慣れた街並みの惨状に言葉を失う

辺り一面に散乱したがれきの中から、次々と遺体が見つかる。「これは大変なことになった…」。東日本大震災の発生から4日後の2011年3月15日、県警の救出救助隊員として陸前高田市に足を踏み入れた小山強(おやま・つよし)警視は言葉を失った。

 

前年まで大船渡署の刑事課長を務め、管内の陸前高田は思い出の多い場所だった。見慣れた街並みは、見る影もなかった。生存率が大幅に下がるとされる「発生から72時間」はすでに過ぎていた。小山さんは20~30人を見つけ出したが、生存者はゼロだった。

写真説明:震災で壊滅的な被害を受けた陸前高田市(2011年3月12日)

遺体の収容に作業が追いつかない

3月23日、遺体の死因や身元を調べる検視隊に入り、陸前高田市の旧矢作小と旧下矢作小に設けられた遺体安置所を行き来する日々が始まった。体育館に最大時で約100人の遺体が収容され、寒風が吹き込むなかで検視が始まった。作業の前には必ず近くの沢で水をくみ、遺体についた砂や泥を丁寧に拭き取った。

だが、遺体の数が多く、「検視が追いつかない」という焦りを抱えた。身元が判明しても火葬ができず、安置されたままの遺体もあった。

最も過酷だったのは…

「最も過酷だった」と振り返るのは、家族が遺体と対面する瞬間だ。ある母親は、幼い娘にすがりつきながら声を絞り出した。「寒かったね。もっと早く迎えに来ればよかったね。ごめんね、ごめんね……」。それでも、遺体と対面した後、遺族の大半が「ありがとうございました」と頭を下げて帰っていく。いたたまれない気持ちになった。

「引き取り手がない」という問題が浮上

やがて、新たな問題が浮上した。なかなか引き取られない遺体が出てきたのだ。検視隊は3月下旬、「身元追跡班」を約10人態勢で結成。遺留品の写真などを手にして避難所を回る「聞き込み」が始まった。

身元の判明に向け、「できることは何でもやった」。ある行方不明者が県外の友人と手紙のやりとりをしていたと聞きつけると、すぐに手紙を取り寄せ、切手に付いた唾液のDNA鑑定を依頼した。人工関節の製造番号を製造元に問い合わせたケースと、結婚指輪に刻印されたイニシャルと日付を手がかりに役所で戸籍謄本を調べたケースは、いずれも身元の特定に結びついた。

遺体の「取り違え」もあった

一方で、遺体を別の遺族に引き渡してしまう「取り違え」も10件あった。遺族が一家5人で遺体を確認し、「間違いない」としたケースでも、後のDNA鑑定で別人だとわかった。身元の特定に際しては、顔だけでなく身体的な特徴も遺族に確認してもらうのが鉄則だが、体のことは家族でさえわからないことが多いという。小山さんは「DNAが一致して引き渡すのが理想だが、大半の遺族は『早(はよ)う帰してくれ』と言うはず。手術痕を詳しく調べるなど、できる限り要件を厳格にするほかない」と身元特定の難しさを語った。

身元判明の可能性がある限り

震災から10年。現在も、「身元追跡班」と呼ばれる捜査チームが県警本部の捜査1課と沿岸各署にある。県警はこれまで4626人の身元を特定してきたが、まだ48人の遺体は身元がわかっていない。行方不明者も1111人に上る。

写真説明:「遺体と対面した一つ一つの場面を覚えている」と語る小山さん。県警は似顔絵や遺留品の写真を公開して身元不明者の情報を求めている(2021年2月8日、盛岡市の県警本部で)

小山さんは2020年3月、捜査1課検視官室長に就任した。震災発生から多くの月日が流れたが、身元が判明する可能性は残っており、被災地で開かれる身元不明者や行方不明者の相談会には毎年、足を運ぶようにしている。実際に2020年9月には、9年半を経て遺骨が家族の元に戻ったケースもあった。小山さんは力を込める。「最後の一人が見つかるまで、身元追跡班の役目が終わることはない」

(読売新聞 2021年3月3日掲載 東日本大震災10年 証言「身元確認」※肩書は掲載当時)

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