3.11仙台 東京から12時間 未明の街は闇だった

さらに先に進むと、道路を埋める家の残骸や、土台だけ残し、破壊された住宅が目の前に広がっていた。周囲には、被災した家から毛布や着替え、荷物を運び出す人々も行き交うが、道を進もうにも、がれきの上を歩くしかない。何度も転びそうになりながら、列車のある場所まで向かった。

列車は津波に流され、連結部分から折れ曲がるように停車していた。中には誰もおらず、近くまで寄って写真を撮る。

写真説明:宮城県東松島市のJR仙谷線野蒜駅―東名駅間で、脱線した4両編成の列車が無残な姿をさらしていた(2011年3月12日、筆者撮影)

直後、「おーい」という声に振り返る。近くの小さな山の斜面からの声だった。

「津波で避難したが、体調の悪い人がいる」。女性の声がした。道もなさそうな山をどうやって登ったのか、20mほどの高さのやぶの中に、数人の男女がいた。寒空の中、一晩を過ごしたのだろう。だが、斜面の中腹にいる人々の所まではとてもいけない。「人を呼んできます」と言うしかなかった。

集落に戻ると、人々が自分の家の被害を確認したり、隣人らの無事を確かめあったりしていた。1人の男性に話を聞いている最中、高校生くらいの少年が「お父さんが見つかった。家の横にいた」と男性に駆け寄ってきた。

少年の父親は、自宅のすぐわきでがれきに挟まれ、遺体で見つかったという。話しかけようとしたが、少年は、何も言わずそのまま歩き出し、涙ぐみながら避難所へ入っていった。悲しみに暮れる少年に、私は、最後まで声をかけることができなかった。

電気もつかない体育館  がれきや泥が残る床に…

翌日、津波で冠水したままの石巻市で、避難所を取材していた私は、総局から「野蒜地区で200人超の遺体が確認された」との連絡を受け、再び野蒜へ向かった。昼頃に到着すると、自衛隊が避難所となっている野蒜小学校の体育館へ、次々と遺体を運び込んでいくところだった。

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