3.11大船渡 甚大な被害を受けた町で妻を探した

中学校体育館に足を踏み入れ、500人以上いる避難者の一人ひとりの顔を見るが見あたらない。ホワイトボードには、避難者一覧が張り出されている。妻の名前は見あたらなかった。途方に暮れ、ホワイトボードを見つめていると、後ろから私の名を呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると妻だった。「いたー」と大声を上げ、抱き合った。最初に逃げた小学校のすぐ下まで津波が押し寄せ、校庭で泣き叫ぶ児童2人の手を引っ張って、中学校まで逃げたのだった。「生きていて良かった。津波に追いかけられて、もうダメかと思った」と妻が涙目で話すと、ホッとして、私も涙が流れてきた。

何とも言えないうれしさだった。避難所で塩むすびを一つずつ食べ、一緒に通信部に向かった。しかし高台から見下ろすと、建物の周囲をがれきの山が囲い、下には降りられなかった。

写真説明:津波で市中心部の2階建てアパート(緑色屋根)の1階にあった大船渡通信部は全壊し、がれきで覆われて近づけなかった(2011年3月12日、筆者撮影)

妻を避難所に残し、遠野に戻ることにした。新聞記者の妻は、発生から1週間は取材に専念することを理解してくれると思ったからだ。妻は8日間、避難所生活を送った。

震災から8日後、妻を迎えに行き、一緒に通信部の中を片付けに行った。中は、天井が落ち、ガスボンベやサンマなど無いはずのものが散乱していた。どこに何があるのかわからない状態だった。取材資料や仕事用の机、ファクスなどの機材がどこにあるのかもわからない。思い出の写真も見つからない。

写真説明:全壊した建物1階にあった大船渡通信部で片付け作業を行った(2011年3月19日、筆者撮影)

「何も見つからない。でも指輪だけは見つけたい」。震災の前日、仕事だった妻は指輪を外したままだった。結婚指輪は見つからなくても、ジュエリーボックスに入った婚約指輪だけは見つけたかった。必死に探すと、棚や服が散乱し、水浸しの床にボックスはあった。中に指輪があった。「ありがとう」。そう言って、泣く妻を見て、絆の大切さを改めて強く思った。

妻を実家に帰し、新たな通信部に入居できるまでの約2か月間、ホテル暮らしで震災取材に打ち込んだ。そして今、再び妻と被災地で暮らしている。復興の歩みを進める被災地。廃虚と化した街は、人の命や生活を奪われ、今も悲しみに覆われている。余震の恐怖もある。

自らも被災し、取材相手とあの日を共有しながら、情報発信を続けている。そして妻とともに、人生最大の出来事を後世に伝えていきたい。

 

「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」盛岡支局大船渡通信部・吉田拓矢 (P27~31)

※)「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」は読売新聞社が東日本大震災の取材にあたった読売新聞記者77人による体験記をまとめ、2011年11月に出版した。2014年2月に同タイトルで中公文庫となり、版を重ねている。

東日本大震災・読売新聞オンライン

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