3.11福島 悲鳴の先に原発の映像があった

そんな中、津波に流され「本当に死ぬと思った」という大熊町の女性(77)が、さいたま支局から駆けつけた記者の取材に応じた。地震発生時、海岸から数百mの場所にいた女性は、近くの公民館へ歩いて避難中、津波に襲われた。

「位牌を握りしめ、木材にしがみついた」

「背後からモクモクと高さ3mくらいの波が近づいてくるのに気付いた。数秒後には、頭から波をかぶってさらわれた。足もつかず、海水が冷たくてしょっぱくて、周囲の人の声も聞こえなくなった。海側を振り返ると、20軒以上の家や車が海面に浮き、波に流されて迫って来た。家から持ち出した位牌を握りしめた時、たまたま目の前に大きな木材が流れてきて、必死にしがみついて逃れた」

体育館正面の公衆電話には、20人以上の行列ができていた。言葉も無く、家族の携帯番号を書き込んだメモを握りしめてうつむく人たち。公衆電話もつながりにくく、口を開くことなく立ち去る人がほとんどだった。

並んでいた大熊町の主婦(63)が、福島支局の記者に語ってくれた。女性はスーパーで買い物中に地震に遭い、そのまま近くのスポーッセンターに避難。自家用車内で夫と一夜を過ごし、翌早朝に町から「10㎞圏外へ」と避難指示を受け、自宅に寄ることもなく逃げてきた。いつか原発事故が起こることも覚悟していたというが、「こんなに早く起きるとは……。いつ家に帰れるんだろう」と涙ぐんだ。

政府は12日夜、「20㎞圏外」へ避難を指示。20㎞地点ギリギリの同避難所は13日朝に撤去され、住民は移動を余儀なくされた。20㎞圏内は警戒区域として立ち入りが禁じられた。4月中旬から一時帰宅が実施されたが、大熊、双葉両町の3㎞圏内については「万が一の場合、脱出が困難」として除外された。3㎞圏内の大熊町民が自宅に立ち入りを許されるのは、9月1日まで待たねばならなかった。

写真説明:津波で電車が流され、駅舎も崩壊したJR新地駅。被災から3か月が過ぎ、鎮魂の花が手向けられていた(福島県新地町で2011年6月5日、北出明弘撮影)

 

「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」 福島支局・北出明弘( P203~206) 

※)「記者は何を見たのか 3.11東日本大震災」は読売新聞社が東日本大震災の取材にあたった読売新聞記者77人による体験記をまとめ、2011年11月に出版した。2014年2月に同タイトルで中公文庫となり、版を重ねている。

東日本大震災・読売新聞オンライン

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