気仙沼市の元危機管理課長は使命感を持って伝承館長になった

「安全」と信じていた

大学で海洋土木を学び、市役所では主に防災畑を歩いた。各地区の住民と膝をつき合わせ、避難の場所や経路を考えた。中でも杉ノ下の住民は熱心だった。避難場所を決める際、明治三陸大津波の被害を調べ、地図に落とした。「高台なら安全」という住民の提案を、佐藤さんは了承した。宮城県沖地震の被害想定なども見て「大丈夫」と信じた。

あの日、海から約600m離れた市役所にも、来るはずがないと思っていた津波が来て1階が浸水した。情報収集に追われながら、「逃げていてくれ」と杉ノ下の人たちを思った。1週間後、犠牲者が約60人に上ると聞き、「あそこを避難場所にしなければ、住民は別の場所に逃げたのでは」「決裁の判を押さなければ」と何度も自分を責めた。

何度も住民の夢を見た

夢に出てくる住民たちは、なぜかいつも優しい表情だった。夢の中でさえ、自分が責めを受けないのは苦しかった。周りの説得を振り切り、定年まで1年8か月を残し、2012年7月に市役所を去った。

救われたのは、震災数日後に別の地区の自治会長から掛けられた言葉だ。「避難訓練をした人はみんな助かった。あんたのお陰だ」。杉ノ下の犠牲を無駄にしてはいけないと、2012年から全国で講演活動を始めた。

伝承館の館長をやってくれないか。2020年、市から打診されたが「そんな資格はない」と何度も断った。伝承館で働くスタッフには杉ノ下の遺族もいる。だが、人づてに遺族の思いを聞き、「伝える使命があるのではないか」と思い直した。

写真説明:津波で被災した高校の校舎を活用した震災遺構と伝承館(右手前)(2019年3月、宮城県気仙沼市で)

スタッフの一人で、高台に避難しようとした父を亡くした小野寺敬子さんは「あの場所に強い思いを持つ健一さんこそ館長にふさわしい」と思っていた。

佐藤さんが2代目館長に就いて2か月余り。全国から訪れる人たちに繰り返し訴える。

「『ここなら大丈夫』はない。想定外を想定することで、犠牲をゼロにできる」

(読売新聞 2021年6月11日掲載)

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