津波75年たっても忘れない!昭和南海地震経験者が語る津波への備え

津波は何度も何度も来た

須崎市などによると、津波は揺れの10分後から約2時間半の間に6、7回襲来。須崎駅近辺で高さ2・3mに達し、市内で浸水1315戸、死者・行方不明者は61人になった。高橋さんの近所にも、一度避難したものの、家に物を取りに帰って亡くなった人もいたと聞いた。

写真説明:宝永地震、昭和南海地震の津波被害を伝える石碑の前に立つ高橋さん(須崎市で)

あの日の体験は、地元の小学校で語り続けてきた。「『こうして逃げろ』『どこに逃げろ』と。その土地で言い伝えることがやっぱり大事なんやね。それを経験者がね、何度も言い続けるのが大切や」

高知市内にも津波が来た

高知市宝永町に住んでいた国見淑(よし)さん(85)は暗闇のなか、母親の腰につかまるようにして庭へ出たことを覚えている。「風が吹いたようなザーという音がしたら、揺れ出した。早う外へと思っても、まともに歩けんでへたへたしてね」。自宅前の住宅は倒壊していた。

海水は逆流して自宅を襲った

堤防が破損したのか、溝から海水が逆流してきた。津波だった。水位が増して、自宅の中まで入ってきた。父親と兄が木製のミカン箱を物置から出してきて並べ、その上に敷板と畳を置いて、家族4人で翌朝に水が引くまで待っていた。

各地で地震が相次ぎ、そのニュースを見るたびに75年前を思い出す。

国見さんの体験を子どもの頃から聞いていた長男の俊介さん(60)は高知市消防団に入り、今は下知分団長を務める。小学生を対象に津波避難ビル巡りをするなど、防災イベントの活動も続ける。「次の世代にどうつないでいくかが重要になる」と思っている。

(読売新聞 2021年12月21日掲載 高知支局・滝利明、古谷禎一)

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