(京都府提供)
1935年6月の豪雨で32の橋が流失・大破した
新聞の号外に激しい見出しが躍ったのは、1935年(昭和10年)6月のことだ。
「夥(おびただ)しき大橋梁の流失」
「“泥海地獄”出現す」
その日、京都の上空には梅雨前線がとどまり、時間雨量40 mm前後の「バケツをひっくり返したような雨」が断続的に続いた。24時間雨量は270mm。前年の室戸台風で山が荒れていたこともあり、流木が次々に押し寄せ、鴨川はあふれた。
写真説明:三条大橋が大破している「1935年(昭和10年)6月29日水害写真」(京都府提供)
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この大洪水で、鴨川や高野川にかかる41橋のうち32橋が流失・大破。死者12人、浸水家屋2万4000棟という、京都の災害史に残る大惨事となった。
鴨川の決壊はこの時だけに限らない
暴れ川・鴨川を治めるため、人々は古くから心を砕いてきた。平安時代には「防鴨河使(ぼうかし)」という役職を置き、長い堤防を築いた。天下統一を遂げた豊臣秀吉も1591年(天正19年)、外敵や洪水に備え、市街地を囲むように土塁「御土居(おどい)」を作っている。1668年(寛文8年)には京都所司代が今出川―五条間に石垣の護岸「寛文新堤」を設置した。
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